阪神・淡路大震災発生から丸27年 各地で祈りの朝|総合|神戸新聞NEXT
被災局サンテレビの記録 阪神淡路大震災27年 | サンテレビニュース
当時、私はまだ独身で、兵庫県西宮市の実家住まいでした。
芦屋市との境あたりで、震度6だった地域の、6階建マンションです。
その頃は、成人式が1/15に固定されており、
この年は日曜日と重なったので、翌16(月)が振替休日となっていました。
私は大阪のスーパーに勤めていて、なかなか連休が取れず、
ましてや(日)(祝)に休むなど滅多にないことでしたが、
その滅多にない連休を取っていました。
16(月)、
神戸にある山菜料理のお店に、家族で食事に行き、珍しい料理を堪能しました。
何年も前から行きたいと思っていたお店だったので、とても嬉しかったです。
帰宅後、ちょっと風邪気味だったので、入浴はやめました。
(後に、あの時入っておけば良かったと後悔します。しばらく入浴できなくなったので)
そして普通に寝ました。
私の部屋は、居間からフスマで隔てて、反対側はベランダのガラス戸、
両側の壁にはそれぞれ背の高いタンスや本棚を並べて、
その間の細長い空間に、布団を敷いて寝ていました。
恐ろしいことに、タンスの上には、使わなくなったテレビ台(マグネットのガラス扉つき)を載せて、物入れとして使っていました。
そして、その時になりました。
ぐっすり寝ていたので、予兆はわかりませんでした。
最初、ドンと下から突き上げられた気がします。
それから、激しく左右に揺さぶられました。
その揺れ方は、グラグラ、、、などではありません。
グワン!、、、、、グワン!、、、、、
グワン!、、、グワン!、、、
と、1ストローク毎にタメがあり、
敷き布団や身体が、そのたびに横滑りする感覚がありました。
私はどうすることもできず、布団を頭からかぶって、揺さぶられていました。
その上に、左右のタンスや本棚が倒れてきました。
もちろん、重たいテレビ台も落っこちてきました。
飛び散ったテレビ台のガラスは、数ヶ月後でも「わあ!こんなとこにも」という所から出てきたりしました。
幸い、揺れの方向の加減でしょうか、家具は真っ直ぐではなく、少し斜めに倒れたようです。
後から見ると、枕のあった場所が、何も乗らず三角形に空いている状態でした。
隣の部屋に寝ていた妹は、2段ベッドの上だけみたいな高さのハイベッドを使っていたので、相当怖かったようです。
幸い、先に別の家具が倒れてきて、つっかえ棒のようになったので、ベッドは倒れずに済みました。
揺れが収まり、他の部屋から父が呼ぶ声がしたので、返事をして、なんとか部屋を出ました。
、、、が、実は私、その頃、何も着ない裸で布団に入るのが好きだったので、マッパでした。
なので、まずはその辺りにあるはずのバスローブを探して、着てから出ました。
部屋から出てくるのが遅いので、父はとても心配したようです。
(裸で寝る習慣は、この経験により封印しました)
家族は全員、怪我もなく無事でした。
室内は、色んな物が倒れたり落ちたりして散乱しているようでしたが、真っ暗なのでよくわかりません。
片付けをするにしても明るくなってからにしようや、という会話をした気がします。
我が家は転勤族で、親族が皆、関東にいるため、
心配しているだろうからと、電話をかけて無事を知らせました。
それと、実はこの日は、私は結婚式場の下見に行く予定だったので、行けそうにないことを彼氏に伝えました。
その後しばらくすると、電話は通じなくなったので、すぐにかけておいて正解でした。
(携帯電話などは一般的でない時代でした)
母は「断水するかもしれないから、浴槽に水を溜める」と言い、
まずは前夜の残り湯を抜いて、掃除をしようとしましたが、
掃除の途中で断水してしまいました。
(後に母は「バカだった」と言っていました)
とりあえず何か食べるかと、焼いていない食パンを食べているうち、うっすらと明るくなってきました。
明るくなってから見たら、パンを載せた場所は、すごいホコリだらけでした。
その後は、室内の惨状をなんとかしなくてはと、片付けに追われており、外に出るという発想もありませんでした。
最初はラジオをつけていましたが、おんなじことを繰り返すばかりで、役に立つ情報が入ってこないと感じて、消してしまいました。
なので、自分の家以外の、周辺がどんな状況になっているか、まったく知らないままで、夕方近くまで過ごしたのです。
もちろんテレビもつきませんし。
ある程度、片付けの目処が立った頃、妹が外を見に出かけて、
「周りは大変なことになっている。」と真っ青になって帰ってきました。
一帯の古い木造住宅などは、軒並み崩れ落ちていたのです。
それでも、まだ、あれほどの規模の災害であるとはわかりませんでした。
断層の位置の関係でしょうか、道1本隔てただけでも、被害の出方には大きな差がありました。
暗くなってから電話が通じて、東京に住む友人から
「自分の父親の勤めているスポーツジムにたくさんの人が避難してきていて、風邪をひいている人がいるが薬がない。薬を分けてやってくれないか」
と頼まれたので、母と、歩いて出かけました。
車道は大渋滞で、まったく車が流れていません。
救急車のサイレンが鳴っていますが、その音の場所が、全然移動しなくて、ずっと同じ場所から聞こえていました。
歩道もあちこちひび割れ、
コンクリートに色砂利を埋め込んだようなオシャレ遊歩道は、
埋まっていた砂利が弾き出されて、
路面に砂利をバラ撒いたようになっていました。
その晩は、カセットコンロでお餅を焼いて食べました。
駅前のラブホテルのネオンが早々とついたのに、わが家はまだ電気が点かないので、「なんでだよー」と思っていましたが、夜0時近くになってようやく電気が来ました。
すぐにテレビをつけました。
すると、画面に映し出されたのは長田区の炎。
唖然としました。
翌日は、流石にもう1日仕事は休ませてもらい、友人の安否確認や、以前の職場(こちらもスーパー)を訪ねたりしました。
店内はワインが落ちて割れたので、なんとも言えない匂いでした。
商品を求めて行列ができており、わずかに出勤した社員が対応していました。
道はあっているはずなのに、建物が崩れて景観が変わっているので、「ここはどこ?」と迷子になりながら歩きました。
屋外は埃っぽく、変な静寂があり、映画のセットの中を歩いているような、非現実感がありました。
写真は、阪神・淡路大震災「1.17の記録」からお借りしたものです。
19日から出勤しました。
たまたま連休と重なっていたため、その間、同僚は連勤となっていましたし、
職場がスーパーなので、水などを調達して帰るというミッションも兼ねていました。
最寄りの駅までは電車が来ていないので、
倒壊した建物を避けながら1時間歩きました。
電車が大阪に到着して、ビックリしました。
何も変わっていなかったのです。
私は毛糸の帽子で頭を守り(被らずに外出なんて怖くてできませんでした)、
リュックを背負って、汚れたスニーカーなのに、
キレイにメイクして、スカートひらひらっとして、ハイヒールなんです、、、、
ハイヒールですよ!!!
店にはお洒落な雑貨がいつも通りに並んでいて、電気がついてて明るくてキレイで。
ものすごくショックを受けたことを覚えています。
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私は、自宅も無事で、避難所生活も経験しなくて済み、
家族も誰も怪我もなく、大きな被害がなかったので、
「自分は被災者ではない」と思っていました、、、
というかこの程度で被災者ヅラしてはいけない、という気持ちがありました。
被災地に居たのに、たいした被害を受けていないことが、申し訳ないようでした。
10年ほど前、防災の研修会に出た際「被災地と他の地域とのギャップにより精神不安定になる」という事例を聞きました。
その時、初めて「私も被災者だったんだ」と思いました。
そして初めて涙が出て、止まらなくなり、自分でも驚きました。
震災後15年くらい経ってからのことです。
阪神・淡路大震災から今年で25年経ちます。1995年1月17日午前5時46分 貴方は何処におられましたか?に対する岡野 節子さんの回答 - Quora より一部編集して転載
いつ来るか、わからない災害。
かつての私みたいに、重たいガラス付きの家具を頭上に置くなんてことは、論外だけど、案外、危険が放置されていることも・・・。
今一度、見直しておきたいですね。