「抱っこがつらい…」にサヨナラしよう!

出雲・松江「まぁるい抱っこ☆てごの会」

1995年1月17日、午前5時46分

当時はまだ独身で、兵庫県西宮市の実家住まいでした。

芦屋市との境あたりで、震度6だった地域の、6階建マンションです。

 

その頃は、成人式が1/15に固定されており、

iPhoneのカレンダーで確認しましたが、

この年は日曜日と重なったので、翌16(月)が振替休日となっていました。

 

私は、大阪のスーパーに勤めていました。

なかなか連休が取れず、ましてや(日)(祝)に休むなど滅多にないことでしたが、その滅多にない連休を取っていました。

 

1/16(月)、神戸にある山菜料理のお店に家族で食事に行き、珍しい料理を堪能しました。

何年も前から行きたいと思っていたお店だったので、とても嬉しかったです。

 

帰宅後、ちょっと風邪気味だったので、入浴はやめました(後に、あの時入っておけば良かったと後悔します。しばらく入浴できなくなったので)。

 

そして普通に寝ました。

私の部屋は、居間からフスマで隔てて、反対側はベランダのガラス戸、

両側の壁にはそれぞれ背の高いタンスや本棚を並べて、

その間の細長い空間に布団を敷いて寝ていました。

恐ろしいことに、タンスの上には、使わなくなったテレビ台(マグネットのガラス扉つき)を載せて、物入れとして使っていました。

 

そして、その時になりました。ぐっすり寝ていたので、予兆はわかりませんでした。

 

最初、ドンと下から突き上げられた気がします。

 

それから、激しく左右に揺さぶられました。

 

その揺れ方は、グラグラ、、、などではありません。

 

グワン!、、、、、グワン!、、、、、

グワン!、、、グワン!、、、、

 

と、1ストローク毎にタメがあり、

敷き布団や身体が、そのたびに横滑りする感覚がありました。

 

遊園地のアトラクションのような動きでした。

 

私はどうすることもできず、布団を頭からかぶって、揺さぶられていました。

 

その上に、左右のタンスや本棚が倒れてきました。

もちろん、載せていた重たいテレビ台も、落っこちてきました。

テレビ台のガラスは、とても広範囲に飛び散っていて、

数ヶ月後でも「わあ!こんなとこにも」という所から出てきました。

 

幸い、揺れの方向の加減でしょうか、家具は真っ直ぐではなく少し斜めに倒れたようです。

後から見ると、枕のあった場所だけが、何も上に乗らず三角形に空いている状態でした。

 

隣の部屋に寝ていた妹は、2段ベッドの上だけみたいな高さのハイベッドを使っていたので、相当怖かったようです。

幸い、先に別の家具が倒れてきて、つっかえ棒のようになったので、ベッドは倒れずに済みました。

 

揺れが収まり、他の部屋から父が呼ぶ声がしたので、返事をして、なんとか部屋を出ました。

 

、、、が、実は私、その頃、何も着ない裸で布団に入るのが好きだったので、マッパでした。

なので、まずはその辺りにあるはずのバスローブを探して、着てから出ました。

 

部屋から出てくるのが遅いので、父はとても心配したようです。

(裸で寝る習慣は、この経験により封印しました)

 

家族は全員、怪我もなく無事でした。

 

室内は色んな物が倒れたり、落ちたりして、散乱しているようでしたが、真っ暗なのでよくわかりません。

片付けをするにしても明るくなってからにしようや、という会話をした気がします。

 

我が家は転勤族で、親族が皆、関東にいるため、心配しているだろうからと、電話をかけて無事を知らせました。

それと実はこの日は、私は結婚式場の下見に行く予定だったので、行けそうにないことを彼氏に伝えました。

 

その後しばらくすると電話は通じなくなったので、すぐにかけておいて正解でした。

 

母は「断水するかもしれないから、浴槽に水を溜める」と言い、

まずは前夜の残り湯を抜いて、掃除をしようとしましたが、

掃除の途中で断水してしまいました。(後に母は「バカだった」と言っていました)

 

とりあえず何か食べるかと、焼いていない食パンを食べているうち、うっすらと明るくなってきました。

明るくなってから見たら、パンを載せていた場所(お皿は割れて使えなかったので)は、すごいホコリだらけでした。

 

その後は、室内の惨状をなんとかしなくてはと、片付けに追われており、外に出るという発想もありませんでした。

 

最初はラジオをつけていましたが、おんなじことを繰り返すばかりで、役に立つ情報が入ってこないと感じて、消してしまいました。

 

なので、自分の家以外の、周辺がどんな状況になっているか、

まったく知らないままで、夕方近くまで過ごしたのです。

もちろんテレビもつきませんし。

 

ある程度、片付けの目処が立った頃、

妹が外を見に出かけて、

「周りは大変なことになっている。」

と真っ青になって帰ってきました。

 

一帯の古い木造住宅などは、軒並み崩れ落ちていたのです。

 

それでも、まだあれほどの規模の災害であるとはわかりませんでした。

 

断層の位置の関係でしょうか、道1本隔てただけでも、被害の出方には大きな差がありました。

 

暗くなってから電話が通じて、東京に住む友人から

「自分の父親の勤めているスポーツジムにたくさんの人が避難してきていて、風邪をひいている人がいるが薬がない。薬を分けてやってくれないか」

と頼まれたので、母と歩いて出かけました。

 

車道は大渋滞で、まったく車が流れていません。

救急車のサイレンが鳴っていますが、その音の場所が全然移動しなくて、ずっと同じ場所から聞こえていました。

 

歩道もあちこちひび割れ、

コンクリートに色砂利を埋め込んだようなオシャレ遊歩道は、埋まっていた砂利が弾き出されて、路面に砂利をバラ撒いたようになっていました。

 

その晩はカセットコンロでお餅を焼いて食べました。

 

駅前のラブホテルのネオンが早々とついたのに、わが家はまだ電気が点かないので、「なんでだよー」と思っていましたが、夜0時近くになってようやく電気が来ました。

 

すぐにテレビをつけました。

すると、画面に映し出されたのは長田区の炎。

唖然としました。

gigazine.net

 

 

翌日は、流石にもう1日、仕事は休ませてもらい、

友人の安否確認や、以前の職場(こちらもスーパー)を訪ねたりしました。

店内はワインが落ちて割れたので、なんとも言えない匂いでした。

商品を求めて行列ができており、わずかに出勤した社員が対応していました。

 

道はあっているはずなのに、建物が崩れて景観が変わっているので、

「ここはどこ?」と迷子になりながら歩きました。

屋外は埃っぽく、変な静寂があり、

映画のセットの中を歩いているような、非現実感がありました。

 

19日から出勤しました。

たまたま連休と重なっていたため、その間、同僚は連勤となっていましたし、職場がスーパーなので水などを調達して帰るというミッションも兼ねていました。

 

最寄りの駅までは電車が来ていないので、倒壊した建物を避けながら、瓦礫だらけの道を、1時間歩きました。

 

電車が大阪に到着して、ビックリしました。

何も変わっていなかったのです。

 

私は毛糸の帽子で頭を守り(被らずに外出なんて怖くてできませんでした)、

リュックを背負って、汚れたスニーカーなのに、

キレイにメイクして、スカートひらひらっとして、ハイヒールなんです、、、、

 

ハイヒールですよ!!!

 

店にはお洒落な雑貨がいつも通りに並んでいて、

電気がついてて明るくてキレイで。

ものすごくショックを受けたことを覚えています。

 

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私は自宅も無事で、避難所生活も経験しなくて済み、

家族も誰も怪我もなく、大きな被害がなかったので、

「自分は被災者ではない」と思っていました。

というか、この程度で被災者ヅラしてはいけない、という気持ちがありました。

被災地に居たのに、たいした被害を受けていないことが申し訳ないと感じていました。

 

また、当時、仕事も非常に忙しく、通勤も大変で、、、、

という言い訳の元、

近くに避難所もあり多くの方が避難生活をしていたのに、

一切手伝いに行ったこともなく、

給水車からの水運びに奮闘していた母を手伝ったことすら、まったくなかった私。

 

後になって、

「大変だっただろうに」

「なぜ何もしなかったのだろう」

「やろうと思えば、できたはず」

と、自分がとても情けなく、

「何もしないで、ラクをしていた自分」

「被災者を助けなかった自分」を責める気持ちが、ずっと続きました。

 

その後悔は、後に、

この「まぁるい抱っこ☆てごの会」の活動の原動力ともなりました。

 

つまり「困っている人がいるのに、何もしなかった自分」を取り消すためでした。

 

 

10年ほど前、防災の研修会に出た際

「被災地と他の地域とのギャップにより精神不安定になる」という事例を聞きました。

 

初めて「私も被災者だったんだ」と思いました。

そして初めて涙が出て、止まらなくなり、自分でも驚きました。

 

その時、ようやく自分を許せたのだと思います。

 

震災後15年も経ってからのことです。

 

 

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そして、それからさらに10年が過ぎ、今年は震災から25年を迎えます。

 

あの時、「この土地に大きな地震が来る」などとは、きっと誰も思っていませんでした。 

 

「今まで、なかった」は、まったくあてになりません。

いつ、来るかわからない災害。

あなたは備えていますか? 

NHK 奈良放送局 | リポート

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