当時はまだ独身で、兵庫県西宮市の実家住まいでした。
芦屋市との境あたりで、震度6だった地域の、6階建マンションです。
その頃は、成人式が1/15に固定されており、
iPhoneのカレンダーで確認しましたが、
この年は日曜日と重なったので、翌16(月)が振替休日となっていました。
私は、大阪のスーパーに勤めていました。
なかなか連休が取れず、ましてや(日)(祝)に休むなど滅多にないことでしたが、その滅多にない連休を取っていました。
1/16(月)、神戸にある山菜料理のお店に家族で食事に行き、珍しい料理を堪能しました。
何年も前から行きたいと思っていたお店だったので、とても嬉しかったです。
帰宅後、ちょっと風邪気味だったので、入浴はやめました(後に、あの時入っておけば良かったと後悔します。しばらく入浴できなくなったので)。
そして普通に寝ました。
私の部屋は、居間からフスマで隔てて、反対側はベランダのガラス戸、
両側の壁にはそれぞれ背の高いタンスや本棚を並べて、
その間の細長い空間に布団を敷いて寝ていました。
恐ろしいことに、タンスの上には、使わなくなったテレビ台(マグネットのガラス扉つき)を載せて、物入れとして使っていました。
そして、その時になりました。ぐっすり寝ていたので、予兆はわかりませんでした。
最初、ドンと下から突き上げられた気がします。
それから、激しく左右に揺さぶられました。
その揺れ方は、グラグラ、、、などではありません。
グワン!、、、、、グワン!、、、、、
グワン!、、、グワン!、、、、
と、1ストローク毎にタメがあり、
敷き布団や身体が、そのたびに横滑りする感覚がありました。
遊園地のアトラクションのような動きでした。
私はどうすることもできず、布団を頭からかぶって、揺さぶられていました。
その上に、左右のタンスや本棚が倒れてきました。
もちろん、載せていた重たいテレビ台も、落っこちてきました。
テレビ台のガラスは、とても広範囲に飛び散っていて、
数ヶ月後でも「わあ!こんなとこにも」という所から出てきました。
幸い、揺れの方向の加減でしょうか、家具は真っ直ぐではなく少し斜めに倒れたようです。
後から見ると、枕のあった場所だけが、何も上に乗らず三角形に空いている状態でした。
隣の部屋に寝ていた妹は、2段ベッドの上だけみたいな高さのハイベッドを使っていたので、相当怖かったようです。
幸い、先に別の家具が倒れてきて、つっかえ棒のようになったので、ベッドは倒れずに済みました。
揺れが収まり、他の部屋から父が呼ぶ声がしたので、返事をして、なんとか部屋を出ました。
、、、が、実は私、その頃、何も着ない裸で布団に入るのが好きだったので、マッパでした。
なので、まずはその辺りにあるはずのバスローブを探して、着てから出ました。
部屋から出てくるのが遅いので、父はとても心配したようです。
(裸で寝る習慣は、この経験により封印しました)
家族は全員、怪我もなく無事でした。
室内は色んな物が倒れたり、落ちたりして、散乱しているようでしたが、真っ暗なのでよくわかりません。
片付けをするにしても明るくなってからにしようや、という会話をした気がします。
我が家は転勤族で、親族が皆、関東にいるため、心配しているだろうからと、電話をかけて無事を知らせました。
それと実はこの日は、私は結婚式場の下見に行く予定だったので、行けそうにないことを彼氏に伝えました。
その後しばらくすると電話は通じなくなったので、すぐにかけておいて正解でした。
母は「断水するかもしれないから、浴槽に水を溜める」と言い、
まずは前夜の残り湯を抜いて、掃除をしようとしましたが、
掃除の途中で断水してしまいました。(後に母は「バカだった」と言っていました)
とりあえず何か食べるかと、焼いていない食パンを食べているうち、うっすらと明るくなってきました。
明るくなってから見たら、パンを載せていた場所(お皿は割れて使えなかったので)は、すごいホコリだらけでした。
その後は、室内の惨状をなんとかしなくてはと、片付けに追われており、外に出るという発想もありませんでした。
最初はラジオをつけていましたが、おんなじことを繰り返すばかりで、役に立つ情報が入ってこないと感じて、消してしまいました。
なので、自分の家以外の、周辺がどんな状況になっているか、
まったく知らないままで、夕方近くまで過ごしたのです。
もちろんテレビもつきませんし。
ある程度、片付けの目処が立った頃、
妹が外を見に出かけて、
「周りは大変なことになっている。」
と真っ青になって帰ってきました。
一帯の古い木造住宅などは、軒並み崩れ落ちていたのです。
それでも、まだあれほどの規模の災害であるとはわかりませんでした。
断層の位置の関係でしょうか、道1本隔てただけでも、被害の出方には大きな差がありました。
暗くなってから電話が通じて、東京に住む友人から
「自分の父親の勤めているスポーツジムにたくさんの人が避難してきていて、風邪をひいている人がいるが薬がない。薬を分けてやってくれないか」
と頼まれたので、母と歩いて出かけました。
車道は大渋滞で、まったく車が流れていません。
救急車のサイレンが鳴っていますが、その音の場所が全然移動しなくて、ずっと同じ場所から聞こえていました。
歩道もあちこちひび割れ、
コンクリートに色砂利を埋め込んだようなオシャレ遊歩道は、埋まっていた砂利が弾き出されて、路面に砂利をバラ撒いたようになっていました。
その晩はカセットコンロでお餅を焼いて食べました。
駅前のラブホテルのネオンが早々とついたのに、わが家はまだ電気が点かないので、「なんでだよー」と思っていましたが、夜0時近くになってようやく電気が来ました。
すぐにテレビをつけました。
すると、画面に映し出されたのは長田区の炎。
唖然としました。
翌日は、流石にもう1日、仕事は休ませてもらい、
友人の安否確認や、以前の職場(こちらもスーパー)を訪ねたりしました。
店内はワインが落ちて割れたので、なんとも言えない匂いでした。
商品を求めて行列ができており、わずかに出勤した社員が対応していました。
道はあっているはずなのに、建物が崩れて景観が変わっているので、
「ここはどこ?」と迷子になりながら歩きました。
屋外は埃っぽく、変な静寂があり、
映画のセットの中を歩いているような、非現実感がありました。
19日から出勤しました。
たまたま連休と重なっていたため、その間、同僚は連勤となっていましたし、職場がスーパーなので水などを調達して帰るというミッションも兼ねていました。
最寄りの駅までは電車が来ていないので、倒壊した建物を避けながら、瓦礫だらけの道を、1時間歩きました。
電車が大阪に到着して、ビックリしました。
何も変わっていなかったのです。
私は毛糸の帽子で頭を守り(被らずに外出なんて怖くてできませんでした)、
リュックを背負って、汚れたスニーカーなのに、
キレイにメイクして、スカートひらひらっとして、ハイヒールなんです、、、、
ハイヒールですよ!!!
店にはお洒落な雑貨がいつも通りに並んでいて、
電気がついてて明るくてキレイで。
ものすごくショックを受けたことを覚えています。
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私は自宅も無事で、避難所生活も経験しなくて済み、
家族も誰も怪我もなく、大きな被害がなかったので、
「自分は被災者ではない」と思っていました。
というか、この程度で被災者ヅラしてはいけない、という気持ちがありました。
被災地に居たのに、たいした被害を受けていないことが申し訳ないと感じていました。
また、当時、仕事も非常に忙しく、通勤も大変で、、、、
という言い訳の元、
近くに避難所もあり多くの方が避難生活をしていたのに、
一切手伝いに行ったこともなく、
給水車からの水運びに奮闘していた母を手伝ったことすら、まったくなかった私。
後になって、
「大変だっただろうに」
「なぜ何もしなかったのだろう」
「やろうと思えば、できたはず」
と、自分がとても情けなく、
「何もしないで、ラクをしていた自分」
「被災者を助けなかった自分」を責める気持ちが、ずっと続きました。
その後悔は、後に、
この「まぁるい抱っこ☆てごの会」の活動の原動力ともなりました。
つまり「困っている人がいるのに、何もしなかった自分」を取り消すためでした。
10年ほど前、防災の研修会に出た際
「被災地と他の地域とのギャップにより精神不安定になる」という事例を聞きました。
初めて「私も被災者だったんだ」と思いました。
そして初めて涙が出て、止まらなくなり、自分でも驚きました。
その時、ようやく自分を許せたのだと思います。
震災後15年も経ってからのことです。
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そして、それからさらに10年が過ぎ、今年は震災から25年を迎えます。
あの時、「この土地に大きな地震が来る」などとは、きっと誰も思っていませんでした。
「今まで、なかった」は、まったくあてになりません。
いつ、来るかわからない災害。
あなたは備えていますか?